長患いの憂鬱

乳がん歴22年・再発転移患者の低空飛行なブログです。

ここへきて主治医が変わる

主治医が変わることになった

3年お世話になった

 

今の主治医は

若くてフットワークが軽く診断も指示も的確だし

障害年金申請用の面倒なA3両面書類も丁寧に誤字脱字なく

手書きで書いてくれたり

 

何より

フラットに普通の会話ができるのがありがたかった

腫瘍内科の医師として全幅の信頼をおいていたので

ご本人にとっては大切なキャリアアップなのだけれども

私はとても残念

 

できればいずれやってくる緩和ケアに移行するその時までお願いしたかった

 

20数年前から、治療のたびに主治医がいたけど

初発の時の主治医は

人はいいけど標準治療をやらないと言う不勉強かつ論外な医師で(詳細省略)

 

再発時の乳腺外科の主治医は

相性の問題だったのかとにかく会話がうまいこと成り立たない人で

質問に対する答えがまっすぐ返ってこず

いつも心の中になんとなくスッキリしないものを持ったまま治療を続けていた

 

どこかで医師を信用しきれない自分がいて

治療の選択が合っているのか常に勉強もして情報を集めて確認していた

 

だから

再発転移してじわじわ病状が進んでいる状況で

信頼できる医師に出会えたのはラッキーだと思えたし

それまで経験してこなかった安心感があった

 

医師も仕事なんだから入れ替わりがあるのは当たり前

とはいえ

再発転移が広がりつつ

標準治療の第一選択が終わった今の段階で主治医が変わるというのが

うっすら心にダメージ

 

新たな主治医との関係構築をゼロから始めなければならない

ちょっとだけ億劫

 

がんばれ私

脳転移しております

あらやだ

ブログ始めてみたものの

前回の投稿から156日も経ってるじゃないの

5ヶ月もサボっちゃった

今年の夏は暑かったねー

 

前回の投稿から今までに何があったかと言うと

 

脳転移が発見されましたー

 

ぎゃー

脳外科デビュー

 

4〜5月にかけてエンハーツが効かなくなったころ

胸や腕にがん性の疼痛が出てきて

腫瘍マーカーも赤丸急上昇してたけど

 

あっさり脳転移が見つかるとは

 

鎖骨下リンパ節、肺、肝臓、からの脳転移

乳がんの教科書通りの転移すぎて心底ウンザリ

 

ブログを書く気力も湧かず気がつけば156日経過してた

 

乳がん診療ガイドラインに載っている再発転移の標準治療が化学療法まで

一通り終わってしまい

効くかどうかわからないけどと言うエクスキューズのもと

エビデンスの評価的に2番手、3番手の抗がん剤を続けている

 

現在カペシタビン(商品名ゼローダ)とラパチニブ(商品名タイケルブ)の

錠剤を服用中

 

この2剤が期待以上に効いてくれた

 

これまで使ってきた抗がん剤のドセ・ペ・ルハーもエンハーツも

肝臓と鎖骨下の転移には劇的に効いたものの

肺転移に効いたことがなくて

CTの画像を見ても肺のあちこちに点在してる白いがんの部分が広がる一方で

胸痛もだんだん強くなっていた

 

それが

今回初めて肺のあちこちのがんが小さくなって

この5ヶ月は体の痛みも消えていた

脳転移にも効果が出て転移巣が小さくなっていて

ガンマナイフの治療は保留中

 

副作用もこれまでの薬に比べたらずっとマシで

吐き気はあるけど嘔吐することもなく

発熱は微熱

寝込むのは数日で済んで助かってる

 

しかし

ずる賢くしぶといこの病気

 

実はこの1ヶ月半で胸痛が復活してきて上半身に疼痛が出てきた

マーカーも上昇し始めた

 

脳転移が小さいまま維持できてるのはありがたいけど

がん細胞は体の中のどこかで増えてるっぽい

腹たつわー

 

一応まだ選択肢の薬はあるけど

 

あと何種類使える?

効く?

体か耐えられる?

どこまで続ける?

 

考えてもしょーがないとはわかってるけど

考えちゃうよねえ

 

 

緩和ケアに繋がれない。

がんがどんな治療の経過を辿るのか知っている人は意外と少ない

一つの科で最初から最後までいくわけではない

そのことを知らない人が多い

 

入り口の初診は各臓器別の診療科から始まる

手術をするがんは乳腺外科とか消化器外科とか呼吸器外科とか

ナントカ外科から入ることも多いと思う

場合によっては放射線科にもお世話になったりするし

血液の場合は血液内科とか

乳がんの場合は術前抗がん剤もあるので腫瘍内科から始まったり

 

抗がん剤治療に関しては

抗がん剤スペシャリストの腫瘍内科を持っている病院もあるけど

日本ではまだ少なくて、外科が抗がん剤治療も行ってる病院が多い

 

いろんな治療をしても病状が進行して治療がなくなると

最終的に緩和ケアに移行する

 

大病院の緩和ケア科はとてもとても混んでいたり

患者の家が遠くて通えない状況になったりするので

近くの病院に転院したり自宅に帰ったりする

 

私は長患いなこともあって緩和ケアについても考える時間があった

希望はできるだけ早い段階から緩和ケアが関わることだ

 

10年以上前

初発時の治療が終わって再発もなく自分自身のがんは治ったと思っていたころ

大学院の科目履修生として緩和ケアを勉強したことがある

病院を見学し現場の医師の講義を受けたり

緩和医療学会に行ったり学会で研究発表したりした

 

まだ世の中が緩和ケアというとイコール終末期のケアというイメージだった当時でさえ

学会では「緩和ケアはがんと言われたときから始まる」と言われていた

 

学問的にがんの苦痛と言われる痛みには

 

社会的苦痛

身体的苦痛

精神的苦痛

スピリチュアルペイン

 

という4つのカテゴリーがあって

これらを合わせて全人的苦痛(トータルペイン)といい

 

がんと診断されたその時から様々な苦痛が生じるので

どんな時期でもその苦痛に対応するのが緩和ケア、と言われている

 

実際、再発転移乳がん患者になってみて

思っていたように緩和ケアを受けられているかどうか?

 

長年緩和ケアについて考えたりお勉強したりして

事前学習をしっかりやってきた患者だと思うんだけど

それでもまだ緩和ケアに繋がれていない

 

乳がんが再発してステージ4で標準治療の最後の段階の抗がん剤治療に入った時に

一度、緩和ケアにそろそろ連携できないかと主治医に相談したことがある

 

で、繋いでもらえなかった

自ら進んで緩和ケア受けた〜いという患者も少ないと思うんだけどなあ

ダメだった

 

緩和ケア科では具体的に痛みや苦痛の処置を中心におこなっているので

体調がそれほどひどい状態ではない人はまだ緩和ケアに行けないとのことだった

こちらが行きたいと思っても自由に緩和ケア科を受診できない

 

メンタル面で問題があるなら精神腫瘍科を紹介するとのことだけど

私が希望してる緩和ケアは精神面の問題を薬剤で治療する状況とも違う

 

目の前で苦しんでいる患者さんの治療が最優先なのは当然で

病院の立場もわかる

 

とはいえ

 

体が動くうちに

頭が冴えてるうちに

緩和ケアへ移行した後の在宅と病院の行き来のことや転院するかもしれない病院探しを

確認しておきたいのだけけど

これは緩和ケアに相談することではないんだろうか?

がんの相談支援センターに相談することななんだろうか?

 

個人的な感想としては

緩和ケアは行き届いてない・ニーズに追いついていない

というのが率直な感想

 

私が通院している病院の緩和ケア科は

身体的苦痛の対応で手一杯で

トータルペインを見越したケアまで手が回っていない

 

社会的苦痛→乳腺専門ナース、msw、相談支援センター

身体的苦痛→緩和ケア科

精神的苦痛→精神腫瘍科

スピリチュアルペイン→???

 

スピリチュアルペイン

この分野は

公立の病院の方が

宗教を持つ病院や私立の病院より

弱い分野だと聞いたことがある

 

私の中では今スピリチュアルペインがとても重い

再発するまではスピリチュアルペインがこんなにしんどいものだとは思わなかった

少なくとも初発の時にはわからなかった

 

信仰を持っている人は宗教に拠り所を見つけられるかもしれないけれど

私は該当しない

 

いまわかってる転移が悪化していく不安や悲しさ

これから新たに体のどこに転移が現れてどんな症状が出るのか

わからないという恐怖感もある

 

今後のことを考えて精神的にきついこともある

患者のこころのケアまで対応している病院もあるのだろうとは思うのだが

相談したり対応してもらえる場所や人がうまく見つけられない

標準治療が終わっちゃったったんだけど・・・

 

実際に緩和ケアにお世話になる時に

希望の病院や診療所にかかれるのだろうか

 

体調が悪くて選択もいい加減になり

本当は希望してない所を仕方なく選ばざるを得ない状況にならない?

 

最期なのに?

 

やっぱり嫌だわー

 

考えると憂鬱で

先行き不安

とても困っている

 

標準治療が終わった、らしい。

昨日のCTと診察の結果

肺の多発転移は着実に増大

一時は見えなくなっていた肝転移も復活

 

ということで

 

1年2ヶ月にわたり

休んだり減量したりしながら16回投与したエンハーツも終了することになった

 

つまり

標準治療が終わった

 

あっけないもんだ

 

突然終了を言い渡されたわけではなく

3月のCT画像でも肺の多発転移が増えていて

腫瘍マーカーの数値はCA15-3

増加率が緩かったCEAも増えていて

3月の時点で

主治医から今後の治療方針と遺伝子エキスパートパネルを受ける時期であること

つまりそれは標準治療は終了(見込み)であるという説明があった

 

そしてやっぱり2ヶ月後に標準治療は終わってしまった

ちなみに

3月に申し込んだエキスパートパネルの結果も出て

該当する治療はなかった

 

これからできることは

標準治療ではないけれどある程度効果の見込める化学療法を続けること

そして

治験に入れるかどうか検討するために病院を探すこと

 

ふう

 

昔の私は

標準治療が終わる頃にはもっと体調が悪くて

入退院を繰り返しているような状態になっているんだろうと想像していた

 

けど実際は

抗がん剤投与直後は副作用でぶっ倒れてるけど

副作用が抜けてしまうと

外見的にはピンピンしてて

ライブに行ったり習い事したり

なんとか日常生活を送っていて

私の病気のことを知らない人に乳がんでステージIVで標準治療が終わりの段階

って言っても信じてもらえないほど元気だ

 

だからなのか実感がない

 

これから色々起こってくるんだな

覚悟がいる

 

3月に標準治療終了見込みの話が出たとき

夫が見たこともないほど苦しく悲しそうな顔をした

それからずっと疲れた顔をしている

 

夫は結婚してからほとんどが私の乳がんの看病とサポートの生活で

これまでもずっと私のケアをしてきた上に

これから今まで見たこともやったこともない看護や介護の諸々を頼まざるを得ない

 

それでも治る病気ならまだいいけど

治らない

死別の悲しみまで背負わせてしまう

 

病気が進行して痛い思いや苦しい思いをする恐怖感よりも何よりも

それが一番辛い

 

ずっと辛いままだ

 

 

乳がんになってから写真を残していない。その理由

乳がんになった31歳以降、カメラを極力避けるようになった

22年以上、あまり写真に写っていない

 

理由は

<私の姿かたちを画像や映像に残したくないから>

 

もし私がこの世を去ったら

 

私を忘れないで

 

と全く思っていない

 

初発の33歳の時からそうだった

 

残された家族に写真や動画を見ながらいつまでも嘆き悲しんでほしくない

 

家族や友達には思い出の私が残っていればそれで十分

楽しかった思い出がある人は笑顔の私を

こんちくしょーと思った人は憎ったらしい私を

ふと思い出してくれたらそれでいい

なんなら時の経過と共に忘れてもらっていい

 

私がいなくなっても明るく楽しく笑いの絶えない日々を過ごしてほしい

 

この思いは乳がんになってからずっと一貫している

 

正面を撮られるのが嫌で拒否し続け幾星霜

お断りできない集合写真は後ろの隅に立つ

 

後ろ姿のみOKにしているので

夫が私の写真を撮る時は後ろ姿を撮ってる(はずだ)

 

とはいえ

 

2014年〜2019年までインドで暮らしていた5年の間には

日々エキサイティングで

 

生活の中で面白いことやびっくりすることが多すぎて

行く先々には感動的な出会いや景色がたくさんあって

景色や街並みやイベントも素晴らしすぎ

整理した後でも写真が12,000枚ある

 

写真嫌いなのに写真を撮りまくったし

たまに被写体になることもあった

インドでもほとんど後ろ姿の写真だが

ごくごく稀に正面から撮影した写真がある(はず)

 

なので

後から写真フォルダを辿ってもらえばどこかに私がいるよ

 

遺影用の写真はちゃんと準備してある

 

エンドレスで続く再発転移の抗がん剤治療で脱毛が始まる前に

偶然、証明写真が必要になって

どさくさに紛れて写真館でついでにポートレートも撮ってきた

 

プロが撮って修正した仕上がりは流石の出来栄え

 

全然実物と違うじゃん!!!

 

と言われるだろうけど

 

ずっと飾っておけば

そのうち(こういう人だったかな)ってみんなの記憶がすり替わるだろう 

 

・・・という壮大な計画なのである

 

この写真遺影に使ってね

って

ポートレートを夫に渡す日が1日でも遅くなってほしいんだけども

 

いくら何でも実物と違いすぎる!!!

ってことで

ポートレートを撮り直すぐらい長い時間が残ってるといいなあ

苦手な言葉「がんサバイバー」

「がんサバイバー」という言葉が苦手だ

 

乳がん患者となってしまった22年前ごろあたりに日本に入ってきて

時々見かけるようになった言葉で

アメリカでがん患者や体験者のことをサバイバーと呼びはじめて

日本でも導入されたんじゃなかったかな

 

その昔、このワードを初めて聞いた時

・治療中の人は「患者」

・治療が終わって通院を放免になった人や経過観察になった人は「経験者」または「体験者」

とか日本語で良いじゃん

なぜ無理に英語を使う?と違和感を覚えた

 

生存者って書くとあたりがキツくて若干印象が悪くて

サバイバーって外来語にすれば印象がマイルドになるのはわかる

 

「患者」と「体験者(とか経験者)」に分けると文書や広報を作成する上で

面倒なことはあったのかもしれない

 

気がつけば

いつの間にか「がんサバイバー」は国のがん行政が正式な用語として採用されていて

「がんサバイバーシップ」という考え方が普及しつつあって

動画などに登場する医師でも普通に「サバイバーの○○さん」と言ってるし

自ら「がんサバイバー」と発言している患者さんや経験者さんもたくさんいて

むしろそっちが一般化してごく普通に当たり前に使われている

 

・・・そんな時代の流れになっていた

 

<参考 がんサバイバーとは>

がんサバイバーとは、がんの診断を受けた後を生きていく人々のことを指す言葉。がんサバイバーが持たれている社会生活面でも様々な問題を、本人だけでなくその周囲の人々や社会全体が協力して乗り越えていくという考えをがんサバイバーシップという。

「がんサバイバーシップ」には、1(急性期の生存の時期)、2(延長された生存の時期)、3(長期に安定した生存の時期)、4(終末の生存の時期)という4つのステージがある

 

・・・なるほど

 

本来サバイバーという言葉には「頑張ってる人」的な意味合いは含まれていない

 

苛烈な競争を勝ち残った人とか生存競争を生き抜いた人という意味だし

なんなら「遺族」の方を指してサバイバーということもある

私の中では圧倒的にこっち(↑)のイメージが強い

 

「逆境に負けない」という意味もあるらしいから

こちらの意味でがん患者や経験者をまとめて

「がんサバイバー」ということにしたんだろうけど

やっぱりなにかが引っ掛かる

 

乳がん患者として何十年も生きてきた人生の中で

たくさんの患者仲間を見送り続けてきた

 

出会った時には病気が進行していたあの人

芯が強く最後まで凛としてた

 

私よりずっと後に罹患したのにあっという間に悪化してしまったあの人

祭り好きなチャキチャキの下町っこ

 

みんなみんな逝ってしまった

 

生きている時間が長くなればなるほど見送った同病の仲間の数が増える

22年前の初発の時に出会った直接面識があるがん友(乳がん友達)で

再発した人は全員亡くなってしまってもういない

その中で私はまだ生き残っている

 

そう正真正銘の「サバイバー」だ

 

年数を重ねるほど

私にとってこの言葉は

ますますどこか後ろ暗い、後ろめたい、重い言葉になってきた

誰もいない荒野にずっと一人で立ってるような孤独感が押し寄せる

 

しかも

かろうじて生き残ってるけど

いま病気は進行していて

 

どうやらそう遠くない将来この世界を去ることを考えて

できる準備をしとかなきゃいけないところにきている

 

がんサバイバーシップの定義でいうところの

最終ステージ4(終末の生存の時期)の人になるみたい

 

そうですか

まあその通りなのかもね

 

がんサバイバーという言葉が一般化していても

私はやっぱり自分のことをサバイバーって言いたくないし呼ばれたくない

シンプルに「がん患者」でいい

 

今時こんなことボヤいてるがん患者はきっといないんだろうなあ

 

ちなみに英語圏でもがん患者をsurvivorと呼ぶことに抵抗がある人たちがいて

代わりにaliverとかfighterとか別案もある模様

24年前、長患いの始まり。31歳でしこりを見つける。

2001年の6月、乳がんが確定した

書き間違いではない。

2001年

 

22年前、33歳の時

 

最初に左のバストにしこりを見つけたのは

さらに遡ること2年前の1999年、31歳の時

結婚3年目だった

 

当時住んでいた家の近くにあった婦人科クリニックに行くと

すぐに大学病院を紹介されて、そこで精密な検査である細胞診を受けた

結果は「グレー」

 

がんと断定できないが<がんではないと言えない>ということで

3ヶ月ごとに通院して経過観察を続けることになった

 

年齢的に乳腺の脂肪塊とか良性の腫瘍なら大いにあり得るけど

乳がんではないだろうと思いながら

経過観察を始めて2年が過ぎた頃

しこりが大きくなって痛みを生じるようになり

再度細胞診

 

結果は「悪性」つまり乳がんだった

 

最初の細胞診から2年も経っていた

 

血の気が引いた

 

乳がん確定から1週間後には入院して手術することになった

覚悟もなく事前にじっくり考える間もなかった

 

術前の見立てではしこりの大きさから初期と思われるとのことで

乳頭と乳房も半分以上残せる温存療法を勧められ

そのまま受け入れた

 

術後の病理結果は手術前の見立てとは異なった

 

ステージIIIc

腋窩リンパ節だけでなく胸骨傍リンパ節にも転移があった

完治はない、いつ再発転移しても不思議ではない状況、と説明された

 

2001年に若年性乳がん*患者となって、長い治療が始まった

温存手術・放射線抗がん剤・ホルモン療法のフルコースを6年間続けて

 

その後の無再発生存期間は10年だったことになる

 

2017年に温存したバストに局所再発し全摘

2020年以降、肺に多発転移、肝転移、左鎖骨下リンパ節転移

現在も通院抗がん剤治療中

 

乳がんと確定したのは2001年だけど、しこりの最初の細胞診は1999年

どこから病歴を数えたらいいのか

私の中では1999年の細胞診から始まっているから、数えると24年になる

長い

 

がんに罹患してからの年数を

1年目の検診をクリアすると1年生、というように学生の学年で例えることがある。

 

とすると、24年生

・・・って何やねん

 

2001年当時に出会った乳がん仲間の多くは今も元気に過ごしている

 

一方で

再発・転移したリアルがん友はもうこちらの世界には一人もいなくなってしまった

 

私より後に罹患して

先に逝ってしまった仲間もたくさんいる

 

何人もの仲間も見送って、いま一人になった

 

*若年性乳がん

学術的には34歳までに発症した乳がんをいう。広義で20代、30代の乳がん患者を指すこともある。